3.11の時、私は大学4年生でした。
地震が発生する14時ごろ、とある議員の方のボランティア(だったかな…)でその議員さんの事務所にいました。
そこでテレビにニュース速報が流れます。
映し出される被災地の映像に釘付けになり、刻一刻と変わる現地の様子に、今まで感じたことのない恐怖を覚えました。
その直後、宮崎にも非常に小さな津波が来たため、実家が心配になり、帰宅することに。
宮崎ではその少し前に新燃岳の噴火が起こり、火山灰が宮崎市街にも降り注ぎ、異様な光景となっていました。
その時に、何が起こっているのかわからない状況こそが一番の恐怖だと感じ、Ustreamを使って生配信をしながらTwitterベースで情報共有をしていました。
“インターネットを使えば場所を問わず情報の受発信ができ、コミュニケーションが取れる”
そう思い、事務所から帰宅した後は、新燃岳の時のように、
Twitterで震災関係のアカウントをまとめリストを作り、情報のキュレーション的なことをしていました。
※とはいえ、ネット上に流れる情報は錯綜に次ぐ錯綜…
何が正しい情報なのかも分からず、結局はNHK等の公式アカウント等、信頼できる(と思われる筋の)一部の情報源に頼ってしまうことになったと思います。
この日の夜は眠れませんでした。
原発に関する報道が流れ始め、何を信じれば良いのか分からないほどの混乱状況。
ショッキングな情報を飛び交いながらも今起こっていることを知りたい。
PCに張り付き、それらの情報を漁り続けることで、だんだん気持ちも沈んでしまいました。
翌日は大学の友人たちと熊本へ卒業旅行に行く予定でした。
非常にショッキングな出来事の翌日なので、学生なりに色々と悩んだと思います。
自分たちの結論として、「自分たちが応援できることは経済を回し、できる限りの日常を続けること」。
予定通り熊本へ向かうことに。
今でも印象に残っているのが、レンタカーの中で流れるラジオの情報です。
被災地の行方不明者の名前が読み上げられ、ご家族のコメントがひとりひとり添えられる。
旅の合間にも複雑な感情が入り乱れていたと思います。
あの時に感じたことは一言で言い表せませんが、
その後大学を休学して地域活性化の取り組みを行う。
インターネットに携わる仕事をする。
という自分の決断に少なからず影響を与えていると思います。
6年経ち、あの時感じたことを文章に起こすのは初めてのことです。
前よりも広い視野を持っただろうか。
少しでも前に進めているだろうか。
立ちはだかる正解のない難問にどう向き合うか。
改めて考えるきっかけをいただく6年目の3.11でした。
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